驕った考え方

驕った考え方

第135回芥川賞候補に選出された中原昌也氏をご存知でしょうか?

この中原氏の自伝に『死んでも何も残さない』があります。

私はこの本を読んでいません(笑)。

でも、「WEB本の雑誌」に取り上げられていた「文学って何の役に立つ?」という挑発的な言葉に触発されて、私なりの考えを書いてみたいと思います。

まず、文学はなんの役に立つのかと言われると、何の役にも立たないと思います。

読んでも読まなくても生活に支障はないし、むしろ必要なのは科学・化学・物理などでしょう。

勉強としてのこれらを苦手とする人は多いし、私自身も苦手でした。

でも、生活に密接しているのはどちらかと言えばこれらです。

では、それなのにどうして文学に興味を持つかです。

個人的なことを言わせてもらえば、妄想力を発達させるためです。

妄想というといかにも怪しい響きですが、妄想から想像に至り、最終的に心豊かになれるのです。

それのどこが大切なのか?

はい、生きていく上ではそれほど大切ではないと思います。

でも、それがいずれは創造力に繋がって、世界を動かすことになるのだと思います。

大きく出ましたが、文学と上記に書いた科学等には深い結びつきがあると思っています。

折角考え出されたものが、人に伝わらなかったらただの自己満足だけで終わります。

想像が創造になり、最終的には人に伝える力を加えることで初めて形になるのです。

その力を育てるのが文学であり、役に立たないと否定出来るものではないと考えます。

中原氏によると、「文学には元ネタがあってそれを繋ぎ合わせているだけだ」ということです。

確かにそうかもしれません。

でも、それは何も文学に限ったことではありません。

音楽作品も映像作品も美術作品も、全て過去の記憶の繋ぎ合わせでしかないのです。

現在の中原氏は、音楽活動や美術活動が中心となっているようですが、今の活動も元ネタを繋ぎ合わせているだけです。

人が作り出すものは全て元ネタがあるものです。

私達は模倣して成長していく生き物です。

最初に目にした者(大抵は親)を模倣し、人と出会うことであれこれ考えるようになります。

どんなに立派な考えも、音楽もレシピも物も、全て過去の産物から作り出されているものでしかありません。

だから、「文学って何の役に立つ?」という考え自体がナンセンスであり、驕った考え方なのだと思います。

神戸の婚活パーティー

夏休みのお手伝い

子どもたちが夏休みに入りました。

「夏休みはすすんでおうちのお手伝いをしましょう」

と学校で言われ、お手伝い帳なるものももらってきているのですが……。

うちの子どもたちはお手伝いが嫌いです(爆)。

まぁ私自身も、「ちょっとこれは子どもには任せたくないな」という家事が多くて、選択の幅を狭めちゃっているわけなのですが。

子どもたちがやってもいいお手伝いといえば、

「おふろそうじ」

「おつかい」

でも、お風呂掃除なんて30分かかっても全然きれいになっていません。

バスマジックリンなんか渡そうものなら半分以上も使ってしまい、バスタブを泡だらけにしているにもかかわらず、です。

おつかいはやはり、子どもにはちょっと難しい部分もあり……。

牛乳一つとっても、「メーカー」「容量」「製造日」などを詳しく細かく指定しなければなりません。

先日は「お好み焼き粉買ってきて」と言いつけたところ、普段とは違うメーカーのものを買ってきてしまい、しかもそれが異様に不味く……。

さらには、「余ったお金でなんか好きな物買っていい?」

……家計の無駄になるので、おつかいはちょっと遠慮していただいています。

いちばんお願いしたい庭の草むしりは、

「暑いから」

という理由でやってくれません。

草むしりは午後になって日が陰ってからすることにしているのですが、そうするとヤブ蚊の襲撃にあったりして、確かにキツイ作業ではあります。

庭には雑草よけのグランドカバープランツを植えているので、昨年と比べると、夏場でもそれほどひどく雑草が生い茂ることはなくなりました。

でも、これが小学生にとってはいちばん無難なお手伝いだと思うんですけどね。

今から思うと、私が小学生のころは、けっこういろいろお手伝いをしていたものです。

上履きや運動靴も自分で洗って乾かしていましたし、お風呂掃除ももちろんしましたし、洗濯物を取り込んでおくのは私の仕事と決まっていました。

たまに、遊びに夢中になって、雨が降っても気付かないなんてこともありましたが……。

母がパートに出ていたので、家事を手伝うのは当たり前だと思わされていたのです。

だとしたら、我が子については、私が調教を間違ったとしか言いようがありません。

それとも、私が家に居るからいけないんでしょうか……?